支え合い、シェア。グッチョ感はいつごろから存在したのか。歴史をさかのぼる
地域福祉、地域共生社会、支え合い。これまで「し合う」という感覚をいろんな言葉で表現してきました。そういう感覚はいつから?と、歴史をさかのぼってみようと思いつきました。専門家に聞くと、筑後地域の成り立ちと切っては切れないことのようで―
資源に乏しい島国だから
「支え合いやシェアの文化をさかのぼると、アフリカで誕生した人類が、猛獣から身を守るため集団をつくり始めた頃に至ります。集団が存続するために本能的に大きく二つの戦略が発生したそうです。一つは他の集団から奪うこと。もう一つは、周りの集団とシェアし合うことです」。こう話すのは久留米市役所文化財保護課の小澤太郎さん。今回の記事のキーマンです。
「列島に住む我々が最初に選択した道は、後者でした。資源が乏しい島国で、みんなが生きていくにはそれしかない。断層によって形成された日本列島は、平地が狭い。全てを一つの地域で完結できないから、おのずとシェアの文化が根付いたのでしょう」と話します。
庄屋と農民のグッチョな関係
私たちが暮らす筑紫平野は、さまざまな農作物が採れるため「肥沃な大地」と言われています。注目すべきはその成り立ち。まさに「支え合い」が育んだものでした。
小澤さんによると「この筑紫平野は、江戸時代まで農地開発が難しい環境でした。筑後川の氾濫の多さに加え、平野が川よりも高い位置にあり導水しにくかったんです。当時の農民は本当に厳しい暮らしを強いられていました。それを何とかしようと動いたのが5人の庄屋だったんです」。
庄屋とは、江戸時代の村の役人で、現代の町長や村長のような存在です。筑後川の水を何とか使えないかと、現在のうきは市から本市田主丸町に当たる流域の5人の庄屋が団結。農民と共に筑後川に堰を作り、水路を堀り平野に水を通すことに成功しました。5人は見事に筑紫平野を変身させ、水田耕作を可能にしました。
「高齢の人でも石を運んだりしたみたいですよ。それは強制ではなく『自分たちの土地を何とかしよう』と、できる作業や役割を分かち合ったんだと思います。失敗して庄屋さんが藩から処罰されないように農民は自ら懸命に動いた。完成後、一部の反対していた庄屋から水を使いたいと申し出があった時、五庄屋は『もともと地域のためだから』と分け隔てなく使えるようにしたそうです。まさにグッチョでしょ」と小澤さん。
地域に関わる実感生まれる
人類の始まりのアフリカ大陸にも、江戸時代の筑紫平野にも、困難に直面した人々がシェアし支え合う「グッチョ感覚」で乗り越えてきた歴史がありました。現代にもそういった事例はあります。令和2年の球磨川水害で大きな被害を受けたとある町では官民協働で防災計画を見直したり、地域や施設が独自で避難訓練を行ったりしています。
そして久留米でも、住民や事業所ができることを考えて独自に取り組んだケースはいくつもあります。その一つが防災防疫団体「そなえるくるめ」。新型コロナウイルスが猛威を振るう中で始まった動きです。福祉事業所が現場での経験を生かし、個人ができる感染対策や相談先を特設サイトで紹介。自宅療養者向けに感染対策用品を配布しました。ワクチン接種が始まると、スマホ予約が苦手な人の手続きサポートも。
自然災害、感染症、紛争。個の力では太刀打ちできない出来事が頻発し、社会不安が広がっています。まちや地域を「自分たちがつくる」という実感を得にくい時代なのかもしれません。しかし、昔も今も支え合いやシェアという、グッチョな感覚を持ちながら逆境や困難を乗り越えてきた人々がいました。
こういった感覚を日常から持つことができれば、ただ「住む場所」から、地域や周囲の人との関わりを持ちながら「暮らす所」に変わるのかもしれません。グッチョな感覚が循環すれば社会はきっと変わるし、身の回りの安心として返ってくるはず。
グッチョ感の歴史を振り返ることで、今自分が地域と関わるヒントや、まちのこれからに大切なものが見えた気がします。
(担当・フトシ)
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